sakstylr

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Jan 21, 2009 6:35pm

1:
 今日は「近代文学の終り」について話します。それは近代文学の後に、たとえばポストモダン文学があるということではないし、また、文学が一切なくなってしまうということでもありません。私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもう無くなってしまったということなのです。

2:
 私は自分が日本で文学批評をやってきた経験からいうのですが、近代文学は一九八〇年代に終ったという実感があります。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンといわれた時期です。そのころの若い人たちの多くは、小説よりも“現代思想”を読んだ。いいかえれば、それまでのように、文学が先端的な意味をもたなくなってしまいました。その意味で、サルトルのいう「文学」は、批評的なエクリチュールに移っていたといっていいと思います。しかし、これも長くは続かなかった。今、私が「近代文学の終り」というときには、それを批判するかたちであらわれたエクリチュールやディスコントラクティブな批評や哲学もふくまれています。そのことがはっきりしたのが一九九〇年代ですね。日本ではちょうど中上健次が死んで以後です。

3:
 韓国で、学生運動が盛んであったのは、それが、労働運動が不可能な時代、一般的に、政治活動が不可能な時代の、代理表現だったからです。だから、普通に政治活動・労働運動ができるようになれば、学生運動が衰退するに決まっている。文学もそれに似ています。実際、韓国において、文学は学生運動と同じ位置にあった。現実には不可能であるがゆえに、文学がすべてを引き受けていた。

4:
――一八世紀に「美学」という概念が登場したことは重要です。aestheticsというのは、本来、感性論という意味であって、たとえば、カントは『純粋理性批判』の中で、もっぱらその意味でこの言葉を使っています。要するに、それは感性あるいは感情についての学問なのです。しかし、そこに、感性に対する新たな態度があります。感性・感情はこれまで哲学において人間的能力として下位におかれてきた。むしろそこから離れて、理性的であることが望ましかった。ところが、感性・感情が知的・道徳的な能力(悟性や理性)と密かにつながっていること、そして、それらを媒介するものが想像力だという考えが出てきたのです。想像力はそれまで、幻想をもたらすということで否定的に見られてきたものですが、この時期から、むしろ創造的な能力として評価されるようになった。そのことと文学が重視されるようになったことは、密接につながっています。

5:
――小説は、「共感」の共同体、つまり想像の共同体としてのネーションの基盤となります。小説が、知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層を「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです。

6:
――近代国家では、どこでも、それぞれ、漢文やラテン語などの普遍的な知的言語を俗語に翻訳しながら、新しい書き言葉を作り上げた。日本の場合は、明治時代に、あらためて俗語(口語)にもとづく書き言葉を作らなければならなかった。「言文一致」と呼ばれるものですが、それはやはり小説家によって実現されたのです。さきほど「美学」に関して、想像力と感性と理性を媒介するものとして重要になったと述べましたが、言語のレベルでも同じことがいえます。言文一致とは、感性的・感情的・具体的なものと、知的で抽象的な概念とをつなぐことなのです。
 このような過程は、近代のネーション=ステートが形成されるとき、どこでも起こったということができます。

7:
――前田愛が「近代読者の誕生」という論文で指摘したことですが、明治の半ばまでは、小説は、新聞小説もそうですが、一人が声を出して読んで、他の人たちは聞いていた。だから、言文一致の文章よりも、かえって韻律的な擬古文体のほうがよかったわけです。その意味で、近代小説は絵や音声を無くしたときにはじめて成立した、といってもいいでしょう。近代小説は黙読されるものです。近代小説を読むと内面的になるのは当然です。逆に、内面的な小説を声に出して読むことは難しい。

8:
――近代小説の特質は何といっても、リアリズムにあるのです。つまり、物語(虚構)であるのに、それがリアルであるかのように見えさせるにはどうすればよいか、それが近代小説の取り組んだ問題です。

9:
――小説の相手は映画だけではない。映画そのものを追い詰めるものが出てきた。それがテレビであり、ビデオであり、さらに、コンピュータによる映像や音声のデジタル化です。こういう時代に、活版印刷の画期性によって与えられた活字文化あるいは小説の優位がなくなるのは、当然、といえば当然です。たとえば、日本の場合、マンガは広がったことは、徳川時代の小説への回帰であるといえます。江戸の小説は、絵入りで、ほとんど会話だけで成り立っている。

10:
――文学がナショナリズムの基盤となることはもう難しいだろう、ということです。政治的な目的があるなら、小説を書くより、映画を作ったほうが早いでしょう。あるいは、マンガのほうがいい。要するに、活字文化ではなく、視聴覚でやったほうがいい。そのほうが大衆にとって近づきやすいからです。

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「近代文学の終り」(『近代文学の終り 柄谷行人の現在』柄谷行人)

(via kugajoe)
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