sakstylr
http://iddy.jp/profile/sakstyle/
http://twitter.com/sakstyle/
『けいおん!』 アニメメモ
・1話:受動性の問題。できない、あるいはやりたいと思えないということをめぐって(ときに、ほとんどベケットめいて?)。いずれにせよ、一話としては成功しているのだろう。批判したいことがないではないが、個人的には、とりあえずギターを買おうと思わされる。主人公の声も、主題にあって。髪の毛に白い線が入ってるのが、白髪っぽくてかわいい。四人の造形も(典型におさまっている部分もあるが)すばらしい。ところで、部活の最低人数って、五人が一般的でないかと思うが、どうか。のどかちゃんという外部をもっているのも、うまい。名前がP-MODELからというのは渋知の55くらいには行っている。全体的には「バカパク」。
・2話:主人公の受動性にリアリティをみているのは、「萌え」のラディカルな解釈とも言える。でも、一緒にバイトしてくれた友達に「ありがとう」と言ったり、バイト代を断ったりしたあたりには、すでに成長のテーマが巣食ってしまっている。もっと、徹底的に手伝ってもらえばいいのに、とも思う。もちろん、この成長問題は、ご都合主義で「適切に」うやむやにされるので、結局ラディカルな無意味に戻る、とも擁護できるわけだが(こういう言い方をしていると、「模範的作劇」の逆なら正しいという倒錯に陥りそうで、それには無限に注意が必要)。
・3話:追試だけで一話。キャラだけで、なんでももたせてしまえるのだろう。勉強せずにギターをひく、クレしんっぽいユイがかわいすぎる。相変わらず話しているだけだが、面白い。やってることは同じでも、「ガールズトーク」の逆の感性を感じる。もちろん、「ガールズトーク」の暴露癖が女性の真実だとよもや思わないように(男性だけでなく、むしろ女性がそう思わないように)するために、すくなくともこの会話をつづける必要がある。とりあえず、ぼくはつむぎちゃんに決めた(しかし、何を? 空を? 明日を? 意味というものがあるか否かのすべてを)。
・4話:合宿(水着)の回。海(水着)へ。澪(水着)が、先輩の演奏テープ聞いて燃えているが、それでも私たちは大丈夫だというための大切な何かが、浮かび上がるような回かしら(ご存知かしら?)、水着に眼をうばわれて、よく分からなかった(という批評が、やがてありえるだろうか? あると思います)。あやうく、ミオ派に転びそうになるも、ぼくはムギへの視線を固辞する。しかし、それにしても、ミオのカメラがlomoなのは狙いすぎでずるい。
・5話:顧問の回。サワ先生のキャラが増えていくが、これはあまり好きではない(男性の欲望を範としているから?)。ムギちゃんも、百合的(腐女子的問題との差異にかんしては、悪無限的な注意を要する)なキャラを足されて。ユイの、声が嗄れるまでの特訓が省略されていることが、このお話をビルドゥングス・ロマンから再度遠ざけている。ともかく、演奏シーンを先延ばしにしつづけている。次回の、学園祭のために? そうかもしれないが、これを期待と呼べるほどの回答を、予想しえない。
・6話:文化祭。ミオの緊張とライブの成功をめぐる古典的な作劇。伝統的な「少女マンガ」の作劇とも言える。問題の解決の手前で、パンツを見せるという一つ事によって、すべてはふりだしに戻る。ユイが躊躇無くスクール水着を着ている。ユイの爛漫さは、驚異的な水準にたっしていて、当初の受動性の問題は完全に消えている。つまり、彼女は単に天才だったということになる。また、衣装をめぐるくだりにも欲望の視線を感じさせない。女性的な萌えアニメの可能性? おそらく、最大の不可解はここにある。つまり、これは男性の視線を内面化させて女性の欲望なのか、あるいは男性のために供された女性性なのか? だが、これに簡単な答えを出すのは、ぼくの仕事ではなさそうだ。演奏シーンを、PV風の空想に代えたのは、おおいに不満。演奏シーンをベタで見せる演出を、ますます先延ばしにしたということだろうか。それにしても、ここで部分的には見せるべきではないか? まったくもって見せるべきだ。
・7話:クリスマス、新年。いままでで一番すごかった。最高! ひゃっほう! 楽しいばかり。サワ先生のキャラはどうかと思うが、ユイ姉妹の表現が無限にすばらしい。とりわけ冒頭の、幼少期にホワイトクリスマスをプレゼントした挿話。下校時、ユイの手袋がひとつ欠けていることには、末代まで注意(言うまでもなく、妹に貸しているのは)。ところで、あれは、言うまでもないので、言わない(つまり、ここには何も無い)。コート姿のムギ、晴れ着の澪、サンタ姿のユイ! だが、なによりも夜(水着? いや水着ではない)、布団に忍びこむユイの天真爛漫を、しずかに受け入れること。
・8話:いっきょに新歓。ともかく、端々に彼女たちの成長が感じられる。新歓ライブでの、緊張のなさを見よ(ここでは、問題が起こらない)。その場でボーカルを話合いで決める場面と、歌詞を忘れたユイをミオが助ける場面は、初ライブのボーカルをめぐる騒動と対照的である(じつは、クラスがえなどにみられる、彼女たちのある種の容易さの感覚も、この成長の主題をいや増して)。ウイの初々しさとの対比を鮮烈にする意図であろうか。いずれにせよ、作劇を理由に内面を抑圧しているとしても、この作品の場合は批判にならない。こうして、成長の主題を時間の推移(クリスマスから新年度のあいだの推移)によってすっかり説明してしまうのは、これは下手をすると単に「スレタ」と見なされてしまうわけだけれど、ここではむしろ時間への信頼が伺える。女性的な視線は相変わらずで、普段着の気軽なユイのかわいさには、特別なものがある。
・9話:新入生がやってくる。まじめで上手な梓ちゃん。けいおん部が練習をしないことに嘆いている。お茶を飲みケーキを食べることと、練習することとが背反なものとして認識される理由は、実際には不明。人生の諸問題がキャラ化されている。デフォルメが目立ち、紙媒体らしい「マンガ的」な表現も目立つ回だ(動いてないが、代案をもってきてる分だけ見れるとも言える)。キャラの自動性頼りになっていて、とくに見なくてもいい回とも言える(全体の流れからは浮いている)。「楽しさ」を根拠に梓がけいおん部を選ぶあたりは、かなり都合がいいように感じた(まあ、すこしは泣いたけれど)。「学園」のなかに、話の分かる年長者がいて、おかしとお茶とゆるやかな自己実現があって、文房具やカメラや楽器といった小物の(ブランドとして共通理解に供される類いの)豊かさがあって、仲間もいるという、とても幼くまっすぐな欲望が、ここではすっかり女性のものになっている。そして、その欲望は「ちょっとした」新入生いじり(主観による程度という、暴力の典型)まで許されてしまうようなのだ。萌えアニメの欲望と女性の欲望が、表面上ものすごくきれいに重なっているのが不安だ(その重なりを、素朴に信じることなど、誰にできるだろう。でも、ぼく見てる間はできるかも)。視聴者がだまされているのではなく、制作者が自分をだましているのではないかと思う瞬間もあった。OPに、ちょこんと梓を書き加えるセンスはすぐれているが、じつは梓の他者性を抑圧している点で暴力的である(つまり、四人は梓のためになにも変わらないし、変わる気がないのだ。だとすれば、それは他者との出会いとしての人間関係になっていないのだ)。
・10話:また合宿。梓の視点から、先輩たちの姿が再発見される。先輩たちの世界は、「再発見」されるべきものとして、すでに反復のなかにあるというわけだ。「また合宿」というタイトルが、その反復性をみごとに象徴している。いずれにせよ、ここには起源がなく、物語がない。起源の問題がないのだから、作劇上も事件は起こらず、既定の要素(含水着)の反復に尽きる。ミオの恐がりを、ムギの子供っぽさを再発見し、そしてとりわけ、ユイの柔らかさを再発見することに劇が掛けられるというのは、じつは物語としてはとうに破綻している。いずれにせよ、梓の日焼けは必見だ! お風呂シーンでの、湯けむりの多さも特筆に値する。
・11話:ピンチ! 澪とノドカの急接近に、律が嫉妬(前話の予告では、ユイのギターの弦が錆びていることだけが予告されていたので、ピンチの内実がすこし大きくなったような印象がある。しかし、あくまでも「すこし」だ)。外部としてのノドカが、ここにきて真に機能する。律は、同時に風邪をひいていたことが分かり、それが都合のいい解決への出口になる。その風邪がユイにうつっている。ひきつづき、大きくはないが、「日常」のなかにありそうなピンチ。絵はあまり動いてない。
・12話:そして、最終回。風邪という、ありふれた問題が機能する。機能するが、それも所詮は「日常」にありそうなピンチでしかない。そもそも、風邪をがんばってなおすという程度の努力は、あくまでも物語未満であって好ましい。したがって、「日常」を淡々と語っていたのに、最後になって個人史的な事件(オイディプス的な事件)を語ることで物語のかたちを「整えて」しまう『ヒャッコ』的な篤実さは、ここでは無用の長物として退けられている。卒業を、回帰的時間に回収した『あずまんが大王』(したがって、その再開は必然だったのだ)以来の回答法がここにも生きている(最終回のあとに、日常のなかへの溶解としての13話が準備されているのはそのためだ)。だから、残されるのは運動の問題であって、ここでは二、三の場面を指し示すだけで事足りるだろう。つまり、走りながら踏切をくぐるユイ、演奏中のユイの腕の不器用な直線的運動(それが意図的な不器用さであるのは、他の演奏者たちの腕の動きと対比すれば明らかだ)、そしてなにより、演奏中のミオとユイの口の動き(ほとんど、この一話のすべてである)! あの口の動きのバリエーションを、明日の豊かさと呼ぶことができるだろうか? 呼ぶしかないと京アニは言っているのだ。