sakstylr

http://iddy.jp/profile/sakstyle/
http://twitter.com/sakstyle/

Dec 4, 2009 4:23pm

特に興味深かったのが圧縮アルゴリズムを用いて作者を推定するという試みだ。人それぞれ書き癖や好きな単語などが当然あるので、同一人物のテキストであれば圧縮度は高まる。

そこで作者不明のテクストを圧縮(普通にzipとかでOK)しておき、そこにAさんのテキストとBさんのテキストをそれぞれ追加圧縮する。より高圧縮であったほうが元のテクストの作者であるというのである。これは統計上かなりの確率で当たるらしい。

- http://d.hatena.ne.jp/leibniz/20091123/1259381192
Nov 11, 2009 1:47pm

ボカロやアイマスにバンドやらせるなら

あまりにも今更っつうか、どうしたの急にって感じのネタだけど、思いついたからメモる。

きっかけは、光収容の倉庫「孤独の果て」PVで、ギターボーカルがリン、ギターがレン、ベースがミク、ドラムがルカだったのを見たから。

でも、自分のイメージとしては、レンはドラム

ギターボーカルがリン、ベースがミク、ドラムがレンのスリーピースバンド。

これがいいと思う。姉弟+その親友って、なんかいかにもそういうバンドいそうだし。作詞はリン。曲は3人で持ち寄って作ってる、みたいな。

ドラムは、小さい人かごっつい人っていうイメージが何故か自分にはあって、そういう点から、ドラムはルカではなくレン。レンがドラムっていうのは似合っていると思うんだけどなあ。

ミクがベースっていうのは、「ボーカロイドがYouのセッションをやるようです」の影響かなあと思うのだけど、ロックバンドやるならミクはベースっぽい。もともと自分がボカロックをあまり聞かないせいもあるだろうが、ミクにはあまりロックなイメージがない(のでボーカルではない)。

ルカはギターで、サポートメンバー。

ギターは、これは完全に光収容の影響だけれどもw リンはテレキャスなわけで、レスポールは似合わない気がする。一方、ルカはレスポールが似合うかなあと。

カイトは確かにドラムだろうとは思う。カイトがドラムやってるイラストって見掛けるし。でも、カイトはロックバンドのドラムというよりも、ブラバンやビッグバンドでドラムやってそう。

メイコは、わからん。ボーカルかバックコーラス? がくぽも一人でボーカル。めぐぽもようわからんが、キーボード? キーボードはハクか。

ミクがベース、ネルがギター、ハクがドラムっていうスリーピースもありかもしれん。

UTAUメンバーはロックのイメージがないのでパス。

まあでも、テトさんはドラムやっててもいいかもしれない。あと、ピネはDJでw

次はアイマス

ってか、OZAKIPの「殺伐にしてみた」みたいな曲やるアイドルいたらいいのにって切に思っている。ので、以下のアイマスバンドも、ただのガールズバンドじゃない、多分w

個々人のパートのイメージとしては

春香→Vo.(ギターボーカルもあり)、千早→Vo.、美希→Gt.ないしVo.、やよい→Dr.、伊織→Ba.、真→Dr.、雪歩→Vo.ないしKey.(あんまりバンドのイメージはない)、あずさ→Vo.ないしGt.(しかし何でもこなせそうだ)、律子→Ba.ないしKey.、亜美真美→ツインギター

で、バンド組むとしたら

(1)Vo.春香、Gt.美希、Ba.伊織、Dr.真

あまり見ない組み合わせな気がするが(そもそも4人ユニットはないということを置いても)、この4人が一番ハードコアで騒やかな演奏をしてくれそうな気がする。春香は時々ギターを持つこともある。真のドラムは期待w

(2)Vo.千早、Gt.あずさ、Ba.律子、Dr.やよい

ガチトリオバンドということで、勢いよりもテクニック。じゃあ、Dr.は真じゃねって感じもするが、なんかそれは逆につまらない感じがするし、やよいがドラムってのは結構かっこいいと思う。MCの時は、千早はやよいの話しかしない、かつやよいにしか話をふらない、そういうバンド。

(3)Vo.雪歩、Gt.亜美&真美、Ba.伊織、Dr.真

「FirstStageを殺伐にしてみた」を聞くと、雪歩の声とOZAKIバンドサウンドは意外にも相性がよいことがわかる。亜美真美がひたすら駆け回るステージングが目に浮かぶw

(4)Vo.美希、Gt.亜美&真美、Ba.伊織、Dr.やよい

ロリトリオwith美希! カオスな音を紡ぎ出す、ある意味で最強バンド。美希がギターをもってトリプルギターになることもある。練習の時とかみんな好き勝手にやってて全然あうことがなく、伊織とプロデューサーが頭とストレスを抱えまくる。だが、本番では奇跡のステージを見せる。いや多分、本番であってもズレてたりするんだけど、何故か熱いというw

Aug 10, 2009 10:05pm

アイマスガンスリ

今更ながらに、アイマスにはまってニコ動で色々見ている。

で、ある二次創作動画を見ているときに、ふとガンスリをアイマス化することを思いついたのでメモっておく。ブログに書くような内容でもないので、こちらに。

ありがちなネタっぽいが、ググってみてもあんまりヒットしない。架空戦記とかにもないっぽい。一件見つけたものとしては、こちら

ガンスリで描かれている義体と担当者の関係(兄妹-フラテッロ)って、なんとなくアイドルとプロデューサーの関係に置き換えることできるよなあとか思いました。
アイドルマスターオルタナティブ案で無邪気でスナイプが得意なやよい(リコ)や、担当者との距離感がつかめない千早もしくは伊織(トリエラ)、減衰が始まってしまってどんどん記憶を失っていく春香(アンジェリカ)とか……。

なるほど、そういう組み合わせ(?)かあと思いつつ。もし、自分でするならば、以下の通り。

ヘンリエッタ→雪歩

これは、見た目的にもキャラ的にもこれ以外はありえないでしょ。担当官(プロデューサー)との関係的にも、まあこれくらいなんじゃないのーというか。しかし、雪歩が近接戦闘タイプっていうのはちょっと違うような気もするけど、まあドリルをP90に持ち替えたと思えばいいのか。

ペトラ→美希

これもこれ以外にありえない。二期生だし。ペトラはゆとりじゃないが、途中で覚醒して、担当官(プロデューサー)と恋仲になるというところとか、スタイルがよいところとかはそのままだと思う。

トリエラ→千早

ストーリー的にはこれは一番盛り上がる感じがする。しっかり者で、辛い過去があって。「私には戦うことしかできない」というトリエラと、「私には歌うことしかできない」という千早。恋愛関係のような恋愛関係ではないような、しかし、一緒に生きていくしかないという絆。戦うこと=歌うことでのみ、担当官(プロデューサー)との関係を築くことができないというのが、ポイントですよね。「よくも撃ったな、ヒルシャーさんのくれた銃で」っていうセリフを千早が言うところを想像すると、すごくもえる(両方の意味で)。しかし、難点があるとすると、トリエラの世話好きなところがあんまり千早にはない感じがするところなんだけど。

アンジェリカ→やよい

トリエラの世話好きなところは、ちはやよいに担わせることにしたい。トリエラが、アンジェリカのことを色々と案じているシーンはあるし。キャラ的には、上の引用にもあったけれど、やよいはリコなんだけれども。うーん、難しい。上にある、アンジェ→春香ってのも面白そうではある。

リコ→春香

貧しい家庭、でも今は幸せっていうところや、無邪気なところや服装にかまわないところなど、明らかにリコはやよいなんだけれども(追記:貧しい家庭というのは間違い。保険金かけられてたのはアンジェリカの方だった)、担当官(プロデューサー)との関係という点で、リコを春香にしたい。スナイパーライフルを構える春香というのもいいじゃないか。リコルートが一体どうなっていくのか、まだガンスリははっきりしていないけれど、義体に対するジャンの冷たさは、春香に対するPの冷たさに通じるものはないだろうか、と(アイマスのあのエンドはPの優しさだと思うけど、ガンスリヴァージョンではあえて、Pは冷酷な奴だという解釈を採用してみたい)。他のルートだと担当官(プロデューサー)はみんな優しいのに、リコ/春香かわいそう!

クラエス→律子

眼鏡だから。それ以外の理由はない。既に担当官(プロデューサー)がいないってことで、小鳥さんでも面白いかな、と思うけど。かつてはアイドルだったけど……とか。でも、そういう話はリッチャンでもできそう。眼鏡を外すと……。あー、美希(ペトラ)とか律子の眼鏡勝手に触りそう!

プリシッラ→小鳥さん

みんなを支える明るいお姉さんポジションってことで。愛の堕天使=妄想、みたいな。

追記

色々ディテールを思い出していくと、なかなかうまくキャラ同士が当てはまらなくなってきていって、難しいなあと思った。

Jul 7, 2009 1:09am

"CydonianBanana's remark about 'Children Shout Shit! Shit! Shit!' by Yuya Sato"

  • CydonianBanana: 帰宅。「子供たち怒る怒る怒る」読書会だった。何を隠そう、佐藤友哉の作品の中では個人的に一番好きな小説。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2497941861]
  • CydonianBanana: 僕は自分たちが属するコミュニティとその《外部》との軋轢として読んだけど、やっぱりみんな考えることは一緒か。それだけこの短編集全体としての方向性がきちんと定まっていたということであって、同時に懐が狭いということでもあるのかな。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2497990859]
  • CydonianBanana: 「大洪水と小さな家」は、なかなか売れない自分の小説を支持してくれる読者と作者自身との共同体として三兄妹を捉えてみれば、物語の最後で《外部》からの影響を徹底的に遮断していた三兄妹という共同体が破綻するのは、そのまま「クリスマステロル」以前の作者の成り行きとして読めると思う [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498111340]
  • CydonianBanana: 「慾望」で描かれる不条理で怪物然とした4人の生徒たちだって、担任教師からは怪物のように映っていても、彼ら側から見れば担任教師たちこそ怪物のように映っているのだろうし、ここにはマイノリティとして社会と折り合いをつけられない人間が淡々と描かれている。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498170841]
  • CydonianBanana: ただここで弱いのは、折り合いをつけられないならどうするの? という苦悩や逡巡を全く描かないことによって、なんだか盛大に投げっぱなして終わり、みたいなところがある点。世代間の軋轢として読むにはあまりに貧弱すぎるので、やっぱりここは、わかり合えない外部があるんだなあと述べるにとどまる [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498202261]
  • CydonianBanana: 前半三篇でたまったフラストレーションや投げっぱなし感は、表題作以降の三篇で回収される。とくに「子供たち怒る怒る怒る」の牛男の存在は大きく、牛男によって作家自身の苦悩が反転させられているとも言える。あるいは作者は、すべてをひっくり返す力としての牛男を切望していたのかもしれない。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498253387]
  • CydonianBanana: それとも、自分が牛男になろうとしたのか? [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498254860]
  • CydonianBanana: 後半二編には《外部》の世界と折り合いをつけられない状況を何とか打破しようとするバイタリティに溢れている。あるいはここに、作者自身の開き直りがうかがえるのかもしれないね。売れないなら売れないで別にいいじゃん、という「大洪水と小さな家」での立場とは、非常に対照的だと思う。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498288821]
  • CydonianBanana: この短編集は、この順序で作品が収められていなければ成立しないんだろうし、これが最初「リカちゃん人間」で締めが「死体と、」とかだとやっぱりダメなんだよな。牛男は短編集全体の雰囲気をいっぺんに反転させるだけの力を持っているのだな。なんかいろいろ強烈な本だった。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498328685]
  • CydonianBanana: なんにせよ、佐藤友哉という作家について語るには欠かせない作品だと個人的には思っているのだった。 [http://twitter.com/CydonianBanana/status/2498360806]
Jul 4, 2009 8:47pm
それなりに親しい友人は、実は7年ごとに半分が入れ替わり、ソーシャルネットワークの大きさは実はずっと同じぐらい - 友人の半分は7年毎に入れ替わる? - YAMDAS現更新履歴 (via thinkeroid)
Jun 26, 2009 6:37pm

“Twitterは、頭の中が空っぽで自己陶酔的なうぬぼれ屋どもが、陳腐で愚劣きわまりない考えを、そういうものを聞きたい読みたいと思っている変態の人たちと共有するために作ったサイトだ”、困惑した様子をありありと見せながらDorseyはこう言った。

“イラン人たちが私の愛する作品を自分たちの目的に利用していると聞いたとき…つまり政治的活動を組織化して外部世界に抑圧的な体制がやってることを知らせるとか…、これほど美しくてシンプルで完全に無意味なものを彼らが台無しにしようとしていると感じて、あせりまくった”。Dorseyは、イラン人が見ても使い方が分からないほど徹底的に退屈で何の役にも立たないWebサイトを新たに構築中だと語った。

- お笑いサイトThe Onionがイラン状況はTwitterを滅ぼしたと報道 (via enjoetoh)
Jun 20, 2009 9:23pm

『けいおん!』 アニメメモ

tokada:

nanari:

・1話:受動性の問題。できない、あるいはやりたいと思えないということをめぐって(ときに、ほとんどベケットめいて?)。いずれにせよ、一話としては成功しているのだろう。批判したいことがないではないが、個人的には、とりあえずギターを買おうと思わされる。主人公の声も、主題にあって。髪の毛に白い線が入ってるのが、白髪っぽくてかわいい。四人の造形も(典型におさまっている部分もあるが)すばらしい。ところで、部活の最低人数って、五人が一般的でないかと思うが、どうか。のどかちゃんという外部をもっているのも、うまい。名前がP-MODELからというのは渋知の55くらいには行っている。全体的には「バカパク」。

・2話:主人公の受動性にリアリティをみているのは、「萌え」のラディカルな解釈とも言える。でも、一緒にバイトしてくれた友達に「ありがとう」と言ったり、バイト代を断ったりしたあたりには、すでに成長のテーマが巣食ってしまっている。もっと、徹底的に手伝ってもらえばいいのに、とも思う。もちろん、この成長問題は、ご都合主義で「適切に」うやむやにされるので、結局ラディカルな無意味に戻る、とも擁護できるわけだが(こういう言い方をしていると、「模範的作劇」の逆なら正しいという倒錯に陥りそうで、それには無限に注意が必要)。

・3話:追試だけで一話。キャラだけで、なんでももたせてしまえるのだろう。勉強せずにギターをひく、クレしんっぽいユイがかわいすぎる。相変わらず話しているだけだが、面白い。やってることは同じでも、「ガールズトーク」の逆の感性を感じる。もちろん、「ガールズトーク」の暴露癖が女性の真実だとよもや思わないように(男性だけでなく、むしろ女性がそう思わないように)するために、すくなくともこの会話をつづける必要がある。とりあえず、ぼくはつむぎちゃんに決めた(しかし、何を? 空を? 明日を? 意味というものがあるか否かのすべてを)。

・4話:合宿(水着)の回。海(水着)へ。澪(水着)が、先輩の演奏テープ聞いて燃えているが、それでも私たちは大丈夫だというための大切な何かが、浮かび上がるような回かしら(ご存知かしら?)、水着に眼をうばわれて、よく分からなかった(という批評が、やがてありえるだろうか? あると思います)。あやうく、ミオ派に転びそうになるも、ぼくはムギへの視線を固辞する。しかし、それにしても、ミオのカメラがlomoなのは狙いすぎでずるい。

・5話:顧問の回。サワ先生のキャラが増えていくが、これはあまり好きではない(男性の欲望を範としているから?)。ムギちゃんも、百合的(腐女子的問題との差異にかんしては、悪無限的な注意を要する)なキャラを足されて。ユイの、声が嗄れるまでの特訓が省略されていることが、このお話をビルドゥングス・ロマンから再度遠ざけている。ともかく、演奏シーンを先延ばしにしつづけている。次回の、学園祭のために? そうかもしれないが、これを期待と呼べるほどの回答を、予想しえない。

・6話:文化祭。ミオの緊張とライブの成功をめぐる古典的な作劇。伝統的な「少女マンガ」の作劇とも言える。問題の解決の手前で、パンツを見せるという一つ事によって、すべてはふりだしに戻る。ユイが躊躇無くスクール水着を着ている。ユイの爛漫さは、驚異的な水準にたっしていて、当初の受動性の問題は完全に消えている。つまり、彼女は単に天才だったということになる。また、衣装をめぐるくだりにも欲望の視線を感じさせない。女性的な萌えアニメの可能性? おそらく、最大の不可解はここにある。つまり、これは男性の視線を内面化させて女性の欲望なのか、あるいは男性のために供された女性性なのか? だが、これに簡単な答えを出すのは、ぼくの仕事ではなさそうだ。演奏シーンを、PV風の空想に代えたのは、おおいに不満。演奏シーンをベタで見せる演出を、ますます先延ばしにしたということだろうか。それにしても、ここで部分的には見せるべきではないか? まったくもって見せるべきだ。

・7話:クリスマス、新年。いままでで一番すごかった。最高! ひゃっほう! 楽しいばかり。サワ先生のキャラはどうかと思うが、ユイ姉妹の表現が無限にすばらしい。とりわけ冒頭の、幼少期にホワイトクリスマスをプレゼントした挿話。下校時、ユイの手袋がひとつ欠けていることには、末代まで注意(言うまでもなく、妹に貸しているのは)。ところで、あれは、言うまでもないので、言わない(つまり、ここには何も無い)。コート姿のムギ、晴れ着の澪、サンタ姿のユイ! だが、なによりも夜(水着? いや水着ではない)、布団に忍びこむユイの天真爛漫を、しずかに受け入れること。

・8話:いっきょに新歓。ともかく、端々に彼女たちの成長が感じられる。新歓ライブでの、緊張のなさを見よ(ここでは、問題が起こらない)。その場でボーカルを話合いで決める場面と、歌詞を忘れたユイをミオが助ける場面は、初ライブのボーカルをめぐる騒動と対照的である(じつは、クラスがえなどにみられる、彼女たちのある種の容易さの感覚も、この成長の主題をいや増して)。ウイの初々しさとの対比を鮮烈にする意図であろうか。いずれにせよ、作劇を理由に内面を抑圧しているとしても、この作品の場合は批判にならない。こうして、成長の主題を時間の推移(クリスマスから新年度のあいだの推移)によってすっかり説明してしまうのは、これは下手をすると単に「スレタ」と見なされてしまうわけだけれど、ここではむしろ時間への信頼が伺える。女性的な視線は相変わらずで、普段着の気軽なユイのかわいさには、特別なものがある。

・9話:新入生がやってくる。まじめで上手な梓ちゃん。けいおん部が練習をしないことに嘆いている。お茶を飲みケーキを食べることと、練習することとが背反なものとして認識される理由は、実際には不明。人生の諸問題がキャラ化されている。デフォルメが目立ち、紙媒体らしい「マンガ的」な表現も目立つ回だ(動いてないが、代案をもってきてる分だけ見れるとも言える)。キャラの自動性頼りになっていて、とくに見なくてもいい回とも言える(全体の流れからは浮いている)。「楽しさ」を根拠に梓がけいおん部を選ぶあたりは、かなり都合がいいように感じた(まあ、すこしは泣いたけれど)。「学園」のなかに、話の分かる年長者がいて、おかしとお茶とゆるやかな自己実現があって、文房具やカメラや楽器といった小物の(ブランドとして共通理解に供される類いの)豊かさがあって、仲間もいるという、とても幼くまっすぐな欲望が、ここではすっかり女性のものになっている。そして、その欲望は「ちょっとした」新入生いじり(主観による程度という、暴力の典型)まで許されてしまうようなのだ。萌えアニメの欲望と女性の欲望が、表面上ものすごくきれいに重なっているのが不安だ(その重なりを、素朴に信じることなど、誰にできるだろう。でも、ぼく見てる間はできるかも)。視聴者がだまされているのではなく、制作者が自分をだましているのではないかと思う瞬間もあった。OPに、ちょこんと梓を書き加えるセンスはすぐれているが、じつは梓の他者性を抑圧している点で暴力的である(つまり、四人は梓のためになにも変わらないし、変わる気がないのだ。だとすれば、それは他者との出会いとしての人間関係になっていないのだ)。

・10話:また合宿。梓の視点から、先輩たちの姿が再発見される。先輩たちの世界は、「再発見」されるべきものとして、すでに反復のなかにあるというわけだ。「また合宿」というタイトルが、その反復性をみごとに象徴している。いずれにせよ、ここには起源がなく、物語がない。起源の問題がないのだから、作劇上も事件は起こらず、既定の要素(含水着)の反復に尽きる。ミオの恐がりを、ムギの子供っぽさを再発見し、そしてとりわけ、ユイの柔らかさを再発見することに劇が掛けられるというのは、じつは物語としてはとうに破綻している。いずれにせよ、梓の日焼けは必見だ! お風呂シーンでの、湯けむりの多さも特筆に値する。

・11話:ピンチ! 澪とノドカの急接近に、律が嫉妬(前話の予告では、ユイのギターの弦が錆びていることだけが予告されていたので、ピンチの内実がすこし大きくなったような印象がある。しかし、あくまでも「すこし」だ)。外部としてのノドカが、ここにきて真に機能する。律は、同時に風邪をひいていたことが分かり、それが都合のいい解決への出口になる。その風邪がユイにうつっている。ひきつづき、大きくはないが、「日常」のなかにありそうなピンチ。絵はあまり動いてない。

・12話:そして、最終回。風邪という、ありふれた問題が機能する。機能するが、それも所詮は「日常」にありそうなピンチでしかない。そもそも、風邪をがんばってなおすという程度の努力は、あくまでも物語未満であって好ましい。したがって、「日常」を淡々と語っていたのに、最後になって個人史的な事件(オイディプス的な事件)を語ることで物語のかたちを「整えて」しまう『ヒャッコ』的な篤実さは、ここでは無用の長物として退けられている。卒業を、回帰的時間に回収した『あずまんが大王』(したがって、その再開は必然だったのだ)以来の回答法がここにも生きている(最終回のあとに、日常のなかへの溶解としての13話が準備されているのはそのためだ)。だから、残されるのは運動の問題であって、ここでは二、三の場面を指し示すだけで事足りるだろう。つまり、走りながら踏切をくぐるユイ、演奏中のユイの腕の不器用な直線的運動(それが意図的な不器用さであるのは、他の演奏者たちの腕の動きと対比すれば明らかだ)、そしてなにより、演奏中のミオとユイの口の動き(ほとんど、この一話のすべてである)! あの口の動きのバリエーションを、明日の豊かさと呼ぶことができるだろうか? 呼ぶしかないと京アニは言っているのだ。

Jun 20, 2009 9:23pm

『東のエデン』 アニメメモ

tokada:

nanari:

・1話:古いと思ってくださいという見かけの余裕が、結構嫌。あえて「周回おくれ」で大衆を狙うなら、「あえて」を強調する韜晦は捨てた方がいいだろう。端的に、韜晦と余裕の防御機制が強すぎるのだ。空自信の根拠として、日本に帰ってからの設定に勝算があるのだろうか? キャラデザも、その韜晦に利用されたのだとしたら、ますますひどいが。実際、ホワイトハウスが中心だと思ったり思わなかったりする女子大生がどうなろうと誰にとってもどうでもいいことだと思っているなら、描かなければいいはずだ。舞台も、英語と日本語の芝居も、よくない。この二人の行動理念が読めないことと、「王子さま」という問題設定については、保留。オアシスのOPは、さすがに90年代的。

・2話:グラウンド・ゼロに対応する、「迂闊な月曜日」という事件の存在が明らかに。しかし、この男の子は、911や映画は知っているが、自分にまつわる記憶や日本の大事件については知らないのだという。ということは、彼は件の「迂闊な月曜日」に本質的にかかわっていたということだろうか? いずれにせよ、彼がナンバーIXと呼ばれ、 莫大な額の「義務」をもつ「救世主」であるといった設定がつぎつぎ明らかになっていく。携帯電話ひとつで、お金で動かせることはすべて動かせるという設定は、なかなかに自閉的。ボーイミーツガールなのだけど、女の子ばっかりが男の子についていっている印象。

・3話:男の子の住所に行く。ショッピングモールまるごとを住まいにしていたらしい。シネコンも所有していたので、映画の知識を貯蔵していたという設定。女の子の、なんだか恋に恋する感じが、どうもふわふわで落ち着かない。やがて、男の子が二万人のニートを裸にして集めていた件に関与していたことが明らかになる。セレソンの一人である刑事の迂闊さ(指紋認証が必要とも知らずにノブレス携帯を奪いにくる、また愛人へのメール?を妻に送って殺されるなど)は、現実的ではないけれど、なんだかおかしくていい。朝の歌舞伎町の描写が、かなりいい。そして、刑事は死に際に12人のセレソンによる100億円つかった国直しゲームの謎をある程度しゃべっていくのだった(「国」が強調されていることには注意)。

・4話:女の子のずっと好きだった人って、姉の夫ではないか、と思わせる冒頭シーン。しかし、この子のなにもしていない感は大変なものだ。滝沢くん(その名もタッキー)のルックスだけが、動因になっているように見えて。滝沢は、ナンバーファイブの医師に会いにいく。彼は自分の理想の病院共同体に百億を使って、サポーターに殺される。滝沢の行動は、ゲームにたいしてつねに迂闊に見える(医師の周到さにたいして)。また、ゲームの「謎」は、わりとすんなりと紹介される。このルールを明確にする感じは、バトロワ以降っぽいのだろうけれど、やはり大時代的だ。ぼくの見る作品じゃない気配はびんびんしている。

・5話:なにか吸血鬼みたいな、猟奇的な女性セレソン登場。咲ちゃんは、内定面接でありえないいびりを受けて、さらに姉の夫への恋情も吐露する。滝沢くんは咲ちゃんにキスして、すべて請け負うという。彼の「国直し」は、やはりニートや雇用の問題にかかわっているようなのだけど、「やつら」という言葉で「大人」を措定しているところが見えると、いまいち言葉が弱い。世代をそこまで特定するなら、この問題は本当の効果をもたないだろう。そもそも、社会でなにをしたらいいかという普遍的な質問を、ニートや雇用の問題で特殊化して、世代化して組織できるようにみせかけるのは(一部の「論壇」ともかかわる問題だが)すこし卑怯に見える。一方、オオスギくんのかわいそうさ、会話のつまらなさは特筆に値する。

・6話:サークル東のエデンのメンバーと、滝沢が手を組む。平澤はかなり魅力的なキャラだと思う。しかし、「ニートの楽園」をつくるという計画と、起業するということは(個人史以外において)かならずしも一致しないように思える。また、それと滝沢の計画が一致するようにも思えない。しかし、なにかサークルのりの楽しさが伝わってくる回ではある。「ジョニー狩り」にあったオオスギくんは、掲示板にたすけをもとめたとされるが、ならメールや電話ひとつできないのはあまりに不可解。事件の犯人の女社長が、ナンバーナイン、ワンを、それぞれロマンチスト、リアリストと呼んでいることも注意(おそらく、この対応関係であっている)。

・7話:ジョニー狩りの美人社長と対面。タンクローリー事故やホテルの買収合戦であほほどお金をつかっている。もちろん、お金でけりがつかないはずのこともやってるけど、明らかに。ジョニーに愛をもらったことがないのかと問う滝沢。なんという素朴さ。そして、その素朴さがわりと嫌ではなさそうな美人社長。しかし、この殺人が、彼女なりの世直しなのだとしたら(これは国直しにはなってない)、これは猟奇殺人じゃないので、「またやってしまった」という5話冒頭の発言と食い違う(これは演出ミスではなく、ひきの演出のために嘘を言わせているのだ)。滝沢が、「迂闊な月曜日」にかかわっていたことも明言される。いずれにせよ、囚われていたのはオオスギでないと分かる。大イリュージョンで飛び立っていく女社長。

・8話:京都でひきこもって、「世間サイト」というラプラスの魔に挑んでるらしいパンツ君に、携帯をなおしてもらいにいく(それこそ、ジュイスに頼めばいいのでは?) パンツ君の関西弁が、なんだか安定しないのが気になるが(広島とか、そっち?)。パンツ君は、やはりニート代表としての自意識をもっている。オオスギは、滝沢が多くの名前をもっていることに気づく。滝沢は、パンツ君にセレソンの話をどんどん喋る。パンツ君の「セレソンは11人じゃないのか?」という台詞で、パンツ君が事情をある程度追っていて、しかも滝沢がかなり核心を喋ってることに気づいたのを示す演出はうまい。

・9話:パンツ君はカープファンと分かり、広島弁の根拠を示す。彼と一緒に、ナンバーフォーの履歴を解析。ミサイル攻撃をしかけたセレソンがいて、それをとめたのが滝沢らしいと分かる(滝沢はまだ知らない)。ニート大量虐殺の線も消える。滝沢は、ニートは「あがってしまった世代」への個人的なテロだと明言する。だから、「Mr. アウトサイド」をぶんなぐる(世界に関与しない人を、世界に引きずり出す)ことが、彼の目標になる(現実界的外部を引きずりだすことで、象徴界をとりもどすという戦略)。この、やや既定コースのニート論と、ミサイル攻撃を食い止めることが、同じ論理で肯定できるかどうか(難しいように思う)。解析の結果分かった、ある危機を知らせる電話をかけるためパンツ君は、咲の買ってきた小さ過ぎるジャージのズボンを履いて外に出る(これは、ニートが外出するという象徴を帯びているようにも見えるが、しかしニートのニート性を否定しているわけではないのですこし曖昧な象徴だ)。ミサイル攻撃の主らしき、京都在住のセレソンと元官僚(彼もセレソン)が、パンツ君を殺し、滝沢を追っている。

・10話:ナンバーワンの一味が、滝沢にアウトサイドの正体と死、滝沢が記憶を消した理由などを語る。ミサイル攻撃を防いだのに、仲間からの「裏切り」にあったのだという。「裏切り」という抽象的な言葉だけで、電話ごしにきいていた咲は泣くが、それは説得力にとぼしい演出だ(どのように裏切られたか、この時点では視聴者にもまだ十分には説明されていない)。人工知能であるジュイスの存在、アウトサイドの権力のあり方など、ありもののガジェットの紹介がつづく。ナンバーワンは、このゲームの「思想」やサッカー用語などの趣味から、アウトサイドがだれか予想した(ヨーロッパ滞在歴などを読んだ)というが、そのような皮肉めかした自己言及は、謎を矮小化する安全策を含んでいて、あまり好きくない(たとえば、エヴァは自分の謎のガジェットが小さいものだとは言わず、留保のない「誠実な背伸び」をしていたはずだ)。ナンバー12が、セレソンの本部を移したとあり、彼がサポーターかアウトサイドだろうと、ナンバーワンは驚く。いままででてきた誰かが、じつはセレソンだったというパターンかとも思ったが、伏線は足りてないので、映画版では新キャラがぽんぽん出てくるのだろう。いずれにせよ、曖昧な「外部」に権力の根拠を求めて、ゲームの舞台を既定してもらって問題を明確化したように見せる、バトロワ以降の一部作品のやりくちの卑怯さを、かなり凝縮している。しかし、この手口は、じつはゲームの設定を問題の曖昧な隠喩としているだけなのだ(それも、現実はサバイバルゲームであるというような、いつの時代にも該当するだろう古くさい隠喩である)。それは、権力構造の単純化でしかなく、そのように「外部」を名指して不安を顕在化して煽るやり方を、やめさせるのが批評でなくてはいけないのだが(同じ手口で「問題」をねつ造する人ばかりが溢れかえり)。

・11話:TV番最終回。いまさらだけど、『24』とかの、米TVドラマのノリを継承してるのだろうと思う。元役人さんは、京都のミサイル青年を裏切り、ナンバーワンのグループは解消される。電話で、滝沢くんがいかに「いい人」であるかが、咲によって語られる(このシーンの弱さについては後述)。滝沢くんは、再度「悪役」を演じて、豊洲に流れ込んできたニートたちを屋上に集め、彼らの人海戦術による最適解(ネットの集合知? いや、ここでは2ちゃん的大衆あるいは「集合痴」のイメージになっている)をもって、つぎのミサイル攻撃を防ぐのだという。「唯一信じてくれた人」である咲を抱えて、滝沢くんは残されたお金でこの「国」の「王」となることを頼む。咲の目からは、「こうして彼は、王のないこの国の王子さまになりました」ということになる(冒頭の「王子さま」のモチーフがようやく指し示される)。したがって、咲はここでお姫さまになれたのだ(メリーゴーラウンドなどの小道具も活きて、王子さま幻想への賭けも動き出している)。あとは、映画版二作に引き継がれる。セレソンの空席がどのように利用されるのかはまだ不明。エンタメとしては面白いので、見にいくとは思う●さて、映像的にはかなり動いていて、ミサイルのシーンなどには力が入っている。しかし、設定の甘さが、いくつかの場面で噴出している。第一に挙げなくてはいけないのは、ニート問題の扱いの杜撰さだ。滝沢は、自分が助けた住民と、そのために使ったニート二万人をかばって「悪人」となった、かわいそうな「いい人」なのだという。しかし、住民避難のためにニート二万人を勝手に「使った」ことに変わりはないわけで、社会的非難から守るためにニートたちをドバイに隔離させたのだという説明では、滝沢の弁明には明らかに足りない。そもそも、本当に社会から隔絶されてしまった人を描くなら、人命を助けることにさえ興味を(にわかには)もてない人たちを想定する必要があるが、滝沢の計画にはそのような視線が決定的に欠けている。人命を救助するのだから、何もしてないニートを駆り出すのは当然で、そのために使った彼らを社会的に「守る」ためにドバイに三ヶ月送ることも善行であるという論理は、ニートを単なる怠惰な手隙のコマとしか見ない、非ニート・「健常者」の暴力的論理である。ニートを、単に怠惰な弱者として扱う態度は、みっちょんの、あいつらは「二次元にしか興味ないから」という台詞や、女の子だといってさっと道を空けていく大量のニートの群れの表象などに、悪いかたちで現れている(ニートとオタクを重ねる、かなりいいかげんな理解だ。この点では、「モマエラ?」といった滝沢のニートへの呼びかけも同罪である)。このような蔑視は、ニート論を核心部に据えていたはずの作品としては、致命的である。ニートたちは、平澤の言葉にも「ゾンビ」とあるとおり、亡者のような表象を与えられる。それは、中途のとある回で、説明抜きに滝沢を襲った表象でもあった。かわいそうな亡者として、ニート像は極度に矮小化され戯画化されていると言うほかない●したがって、ニートたちにも「裏切られた」滝沢は、「いい人」だと強調するときの咲の言葉(その言葉で、平澤たちもほだされるのだが)には、まるで説得力がない(この「いい人」の証明が言葉だけで為されるという弱さを差し引いたとしてもである)。これが第二の問題点につながる。つまり滝沢の行動は、孤独なヒロイズムの被害者面によって肯定されるのだ。この弱いヒロイズムは、唯一のお姫さまに理解されることによってのみ救われるのだという。だとすれば、これは咲の「白馬の王子さま願望」の物語に見せかけ(そのために、およそ最適に近いキャラデザも用いられている)てはいるが、しかし物語の論理は実際には、自分勝手なヒロイズムを肯定してくれる「お姫さま願望」に落ちている。このヒロイズムの弱さは、ミサイル攻撃を阻止するという緊急の局面でさえ指拳銃でかっこつける?姿や、ミサイルの爆風でふっとばされるほどの危険にも顔色を変えないところに現れていて、そのとき滝沢が真に問題に向き合っているとは言えない(たとえば、「池袋ウエストゲイトパーク」で窪塚が、「切羽詰まってんの分かるよね」と言ったときの、キャラを逸脱する切迫がここには欠けている)。だから、ミサイルとパトリオットの攻撃シーンでは、なにやら劇的な明るい音楽が流れ、人々はそれを花火のように楽しげに眺めるしかない。しかし、救世主という語は許すにせよ、真に何かを人々がここで救い、変えようとしているなら、この場面では表層を捨てて本気の顔を見せるべきだったはずだ。だから、このミサイルの攻撃合戦のシーンは、極度にゲーム的であり、まだ現実には届いていない。時代の空気に戦いを挑むどころか、この二種類のミサイルの軌跡は(攻めるにせよ守るにせよ)、時代の空気を単に綺麗になぞってしまっているのである●正直なところ、これらの傷はかなり本質的である。この作品は、もしも大当たりすれば、一部論壇に利用された可能性があるし、それを作品自体がさそっていたふしもあるのだが、おそらくこれを擁護しきることはできないだろう。

Jun 20, 2009 9:22am
登場人物54人をTwitterユーザーとして登録し、これら登場人物が「今、何をしているか」を作中と同じ時間にTwitterに自動的に投稿 - Twitterが演劇の“舞台”に ユリシーズを上演 - ITmedia News (via tundereforce) (via otsune) (via murlbt) (via extramegane) (via enjoetoh)
Jun 20, 2009 9:18am

「tsudaる」定義から始まった「理系文系の定義」とか「数学は生きるために必要」とか - scifiblue

tricken ぎゃーここにまで俺の定義が進出してるーーーーーーー “ASCII.jp:津田大介氏が語る、Twitter報道論「tsudaる技術」” http://ascii.jp/elem/000/000/428/428621/

tricken まあここまで太鼓判押して貰えたのですから、みなさん引用して無難なtsudaる定義を広めていただければ幸いです。

tricken そうか、みんなふつう議論の時に定義とかしないものなのか。ふむ。

kis @tricken 議論のレベルによりますねー。酒飲みの席なら、定義の違いを楽しんで議論します。

tricken まあ「tsudaる」定義の時に強く感じたのが、論語の「必ずや名をたださんか」ってやつで。言葉の使い方を直さないと政治はよくならない、というやつですね。私はこれをかなり馬鹿正直に受け止めています。たとえばこれ。 氷川 TRPG 研究室 - 〈正名〉 Correct Name-批評用語/その他/〈正名〉-PukiWiki

tricken @kis 外延的・列挙的定義ってやつの味わいですね。私がやった辞書的定義は内包的・条件的定義のほうで、コンテクストの最初に置かないとうまく扱えないようになっている。

cognoscenti @tricken buzztterが指標になってしまうように、言葉の定義はだいたい個人内に暗黙裏で了解がいってしまったら、あとはノリでコミュニケーションが進んでしまいますからね、特にここは。でも議論には定義は重要ですので、誰かが定義役=辞書制作をしないといけませんね。

kis @tricken 飲み屋ではそれぞれどこかでコンテクストが違うんですよね。議論が始まったときには定義がまにあわないし。ブログを書くときは「ここでは集合とはなにか数えれるものの集まり程度の意味とする」みたいに定義を書きますけど。

tricken @cognoscenti なんというか、今回の定義の話は、ニコ動のタグ戦争がTwitter上で起こって、うp主がタグロックを掛けたようなものなのかなあと思っています。私は「うまいタグつけた一人」としてたまたま顕名だっただけなのだろうと。

tricken そもそも@k_wizard さんが「tsudaる」について聞いてくれなかったら、定義作業をするきっかけもなかったわけで。辞書職人的な意識は希薄だった。 [See correctly.]

kis @tricken ああ、さかのぼりますけど「言葉の使い方を直さないと政治はよくならない」について、たとえば教育の問題は、文系・理系の定義をやりなおさないとよくならないと思いますね。いまは「実験に金がかかるのが理系」ですからね。

tricken @kis 定義を変えることでどんな新しい議論が可能になるか、をきちんと説明できると嬉しいですね。私は文系理系で自己定義するのを大学生あたりから諦めてます。使えない概念なので。 [See correctly.]

kis @tricken 「その区別には意味が無い」も含めて、文系理系の定義は政治的に必要ではないかと思います。

tricken @kis 確かに。ただ私には良い定義をするためのアイディアがぼんやりとしか見えてないんですよね。理想の文系になるための達成目標なら論じられるんですが。 [See correctly.]

kis @tricken 少なくとも、理系に入るには数学が必要、文系に入るには数学は不要、というのは改める必要があります。それにともなって義務教育での数学の定義もかえる必要があると思います。理系とされている学科に必要な数学のみを数学と呼ぶのではなく、文系に必要な数学も数学と呼ぶ必要が。

tricken @kis 集合・確率・統計・数列・二次関数・微分あたりは文系学問でも大いに使えますね。ただ既存の高校数学の説明ではだめで、もう少し洗練させる必要がある。 [See correctly.]

kis @tricken 具体的には、微分積分を最終目標とした解析学中心の数学ではなく、論理・集合・グラフ・確率・統計といった、生きるためにすべての人に必要な数学を。

tricken @kis リベラルアーツとしての数学は、『反社会学講座』でも主題になっておりました。 [See correctly.]

kis @tricken 目的を明確にする必要がありますね。いまも目的が明確で「工学で使える数学」ではあるのですが。

kis @tricken ちょっと「リベラルアーツ」と「反社会学講座」をぐぐってきます。

tricken アカデミズム分類はむずかしい。人文科学系・社会科学系・自然科学系の3つが一応無難。 [See correctly.]

tricken @kis ああ、反社会学講座で厳密にリベラルアーツという言葉が出てきたわけじゃないですけどね。「バカな社会学者に騙されないための教養」を重視したものです。反社会学講座はオンライン公開されてます。 [See correctly.]

kis @tricken 「反社会学講座」は、ここを読んでると夜が明けて日が沈んでしまいそうですた・・・ スタンダード 反社会学講座

kis @tricken 「反社会学講座」の続じゃないほうの範囲をとりあえず読んでみました。おもしろいので、書籍で買ってちゃんとよみます。

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